ヘッジファンド産みの親アルフレッド・ジョーンズの画期的投資法
ヘッジファンドと聞いてみなさんはどんなイメージを抱くでしょうか?

マレーシアのマハティール首相がジョージ・ソロスを「ごろつき」と名指ししたように、世間的な評判は決して芳しいものばかりではありません。

確かに90年代のアジア通貨危機やポンド下落、2008年のリーマンショックを引き起こしたのも彼らなのかもしれません。

では、ヘッジファンドの担い手たちはただの「ごろつきの拝金主義者」なのでしょうか?
それとも市場の過熱を抑える、リスクマネジメントの天才たちでしょうか?

この記事では、シリーズものでヘッジファンドの人間的な側面について焦点を当て、「投資とは何か」についても考察します。

第1回は「アルフレッド・ジョーンズ」です。

ヘッジファンド界のビッグダディ

ヘッジファンドの誕生は、第2次世界大戦直後のニューヨークとよばれています。

創始者はアルフレッド・ウィンスロー・ジョーンズというハーバード大出の社会学者で、当時は雑誌「FORTUNE」の編集者を兼ねていました。

ジョーンズの経歴は波乱に満ちており、ヒトラー時代の在ベルリン米大使館に勤務し、その後スペイン市民戦争において詩人ドロシー・パーカーと共に戦況をレポートしたと言われ、「生粋のマルキスト」との噂もあります。

ただし彼は、ビジネススクールで学んだわけでもモルガン・スタンレーなどの名門投資銀行に勤めたわけでもなく、ウォール街では全く無名の人物です

そんなジョーンズがニューヨーク証券取引所も居を構えるブロードストリートに質素な事務所をオープンしたのは1949年、彼自身もすでに48歳。

ジョーンズが立ち上げた「1号ファンド」がかき集めた資金は総額10万ドルでした。

そんなファンドがやがて何十倍・何百倍に膨れ上がると、当時だれが予想できたでしょうか?

ジョーンズ「1号ファンド」4つの特徴

「1号ファンド」は今では当たり前とはいえ、当時としては画期的な4つの特徴を兼ね備えていました。

成果報酬制度

それまでの運用ファンドは利益の多寡にかかわらず、場合によっては損失が生じてもイニシャルチャージを徴収するのが当たり前でした。

そんな時代にジョーンズが採り入れたのが成果報酬制、かつて地中海貿易で栄えたフェニキア人船長たちを想い起こさせます。

ジョーンズは、「1号ファンド」の運用で得た利益の2割相当を成果報酬として約束、ポートフォリオマネージャーたちはがぜんやる気になり積極果敢な投資に打って出ます。

運用者出資制

成果報酬制のもとでファンドが損失を出したら、確かに成果報酬は減りますがファンド運用者自体の財布が痛むわけではありません。

ところがジョーンズはさらに運用者の責任をはっきりさせるため、自身の財産を運用資産(パートナーシップ)に出資します。

つまり投資家とジョーンズは顧客と運用者というだけではなく、同じ運用資産に拠出するパートナーという、一蓮托生のつながりだったのです。この辺りも、ジョーンズの哲学は徹底していました。

レバレッジ

ジョーンズは自らの運用手法に強い自信を持っており、より多くのリスクを取りたいと考えていました。

そこで編み出したのが「レバレッジ」

レバレッジとは借入資金を活用して、運用資産の利益率を最大化する手法です。

例えば100万円の元手で10万円の利益を出せば、利益率は10%です。ところが元手は1万円で残り99万円を借入れて10万円の利益を出せば、利益率は1000%に達します。

ジョーンズは、レバレッジを最大50倍まで拡大しました。

レバレッジは後述のロング・ショート戦略の組み合わせで、運用資産を倍々ゲームで増やす「魔法の杖」をジョーンズに授けたのです。

ロング・ショート戦略

それまでのファンドは買い持ち(ロングポジション)一辺倒で、強気相場の時には儲けを出しますが、弱気相場に入った時には「バックギャモンに興じておとなしくしている」しかありませんでした。

それまでもショート・ポジション(空売り)取引はありましたが、パトリオット(愛国者)的でないと見られてあまり活用されてきませんでした。

ジョーンズは、見込みが高そうな銘柄にロング・ポジションを張る一方で、見込み薄の銘柄にはショート・ポジションを積極的に組み入れました。

強気相場の時、ショートポジションが運用成績全体の足を引っ張るせいか、運用成績はパッとしませんが高い威力を発揮するのは、相場が大きく崩れた時。

ロング・ポジション一点張りのファンドが大きく損失を出す中で、ジョーンズの1号ファンドはショート・ポジションのおかげで損失を最小限に抑え、場合によっては運用益すら確保しました。

当初は無名だった1号ファンドも、1966年には雑誌フォーチューンで大きく採り上げられ、その頃には最も著名だったドレフュス・ファンドの運用実績を大きく上回るまでに成長していました。

ちなみに、1号ファンドが34年間の運用実績の中で、損失を出した年は僅か3年だけ。

1984年、ジョーンズはファンドを全て譲渡し、以後はボランティアに生涯をささげます。

そしてジョーンズの成功に触発され、海千山千の男たちがヘッジファンドの世界に飛び込んでいくことになるのです。

 

次号以降では、「錬金術師」ジョージソロス氏について取り上げます。